昭和49年09月16日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
この御理解を頂きますと、最近ここで言われておる、最悪の場合は地球が破滅するとまで言われておる。そういう予想がなされており、人類の存亡生存に関わるような予想にまで言及されておる。それをひっくるめて「世界の難儀」というふうに、その世界の難儀も、ぎりぎりの所まで来ておる。成程天地ははやる事もないし、はやる事がなければ終わりもないのですけれども。地球はそうであるとは教祖様も、やっぱり仰ってはいない。むしろ教祖様は「世の中が開けたと言うけれども。
開けるのではないめげていくのぞ」と仰っておる。言うならこの地球がめげてめげてめげてしまう程しの、地球存亡の時だと言う事が、最近は言われる訳ですね。そこで私共が「天地日月の心になる事が肝要だ」と。また最後に「信心はせんでもおかげはやってある」と仰せられてある。信心はなくても確かにおかげを受けてきておる。天地の御恩恵を受けて来ておる。その信心のない者がです、御恩恵を御恩恵とも気付かずに、何千年か何万年かは分かりませんけれども、過ごしてきておると言う所にです。
言うならば人類の「寒天危地」と。地に対する所が、危ういと言う所まで行っておると言うわけ。そこで私が頂いておりますように、そう言う様な事に事実、なると致しましてもです。私はそういう話を、文男先生からでしたかね、婦人部会の時に聞かせて頂いた時に、何かほんとに胸がドキドキするものを感じたんです。何とかノストラ何とかと言う人がおりますでしょう預言者の。四百年前からの予言が的確に、その人の予言が的中してきておるというのである。
しかもその人の予言によれば、もう地球は二十五年間、人類も地球も一緒に破滅するんだと、予言しておると言う事ですから、ほんとに肌にあわを感ずるような思いが致します。「そん時はもうそん時たい」と言う様な考え方ではやっぱいけない。その時思いました。成程人類は滅亡する。地球はなくなるかも分かりませんけれども、しかし信心をさせて頂く者は魂の世界を信じております。
また魂の世界を信じなかったら、信心が成り立ちません。それで本気で本心の玉を磨かせて頂いて、いわゆる魂を清めさせて頂いて、魂の世界だけではおかげを頂こうぞと言う様な気持ちが、しきりにしました。魂の世界では言うならば、それは仏教的に地獄極楽という言葉で言うならばです。魂の世界で地獄にども行くような事があっちゃならん、ほんとに極楽のおかげを頂かせてもらい、これは魂の世界というものは、永劫のものであろうから。人生僅か五十年間言うならば七十年。
その間に人間としての値打ちを発揮させてもらい、本気で魂を清めておこう。そういう思いがしきりにしました。その事を何回もみなさんにも聞いて頂いたんですけれども。けれども、「神様ほんとうにそう言う様な事になるのでしょうか」と、私はお伺いをさして頂いたんです会合の後に。そしたらね氏子が人間が、自分で自分の首をくくるように、自分で破壊するんだと言う事頂いたです。
例えばアメリカとソ連が、戦争して核戦争と言った様な事になったら、ほんとに地球は破滅いたしましょうね。それはいかにもです例えばボタン一つ押せばね、間違いなしにアメリカから打ち上げる、原子爆弾ですか何かがねモスクワの中央にちゃんと落ちるごと、計算が出来てるというのですから。そういう危機をはらんだまたそう言う様なものがあるから、お互いに牽制し合って行くと言う事にもなる訳です。だから自由主義もあってよし、共産主義もまたあってよいと言う様な感じも致しますけれどもです。
まあその事だけではない。例えばほんとに神様がです。もう地球の終わりと言った様な、予言どんのようなことが起こってくるに致しましてもです。魂の世界が壊されると言う事はありません。だから魂の世界に信心というのは、魂の世界での幸せというか、極楽というかを願わせて頂くのが信心のすべてだと言うても、良いと思うのです本当は。そういう稽古をさせて頂く。
お道で言うならば、和らぎ賀ぶ心「和賀心」というものを本気で追求して、それを頂いていくと言う事が、そのまま極楽に繋がる事であると同時にです、金光教ではその「和賀心」におかげがあると言うんです。商売する者は繁盛してくる。言うならばこの世で病気のない世界、貧乏のない世界、争いのない世界の根本になるのは「和賀心」です。和らぎ賀ぶ心です。そこで例えば信心はせぬでもと言っておられるが、信心のある者あらゆる宗旨宗派があって良い。
信心のある者がです手に手を取って、そういう世界の難儀に当たらなければならない。けれども、ここに私は、それを思うんです。本当に仏教でも良いしキリスト教でも良い。けれども、キリスト教は、罪ということを言う。仏教では因縁と言う様な事を言う。因縁のために、こういう因縁のために難儀があるんだと。こういう罪を犯しておるために、人間が難儀がある。その罪を滅ぼすというか、その因縁を切ると言う事には、大変な教えを頂かなければならない。大変な事なのである。
所が金光教の信心の一番素晴らしい事はです、それは成程因縁もあろう。それこそ先祖代々罪を犯してきとる罪もあろう。だから現在のこの難儀もあろう。けれどもそこん所を分からせて頂いて、御理解3節にあるように、私共の思い違い考え違いを捨てて、愈々和賀心にならせて頂くという、私共が精進をさせてもらうと、罪も因縁も和賀心の前には、それこそ霜に煮え湯をかけるように、かき消す様になくなるというほどしのものだと言う事をです。だからどういう教えを持っとる宗教でもです。
この和賀心だけはひとつ入れて貰わなければ。和賀心だけはまた説明すれば、宗教人であるなら分かるだろうと私は思うです。それは信心は結局喜びを求める、信心の喜びを求めると言う訳ですけれども。その求め方がね、金光教の場合は違うんだ。普通でいう只信心の喜びと言った様なものとは、和賀心というのは違うんだ。そういう意味で教祖様は、偉大なお方である、もう愈々偉大なお方であったなぁと思うんです。
そういう和賀心を宣伝してです。世界中に信心をしておる者が、一緒に輪になって一人で持ち上がらない石でも、大勢の者が掛け声をそろえて持ち上げれば、持ち上がる道理だと仰るような意味合いのことが、全宗教人によってなされなければならない。「信心はせんでもおかげはやってある。」だからここに信心のある者とない者のけじめがつくほどしの、言うならば、キリストの言葉を借りると、善と悪を発見する。いわゆる最後の審判というふうに言っておられる。
ですから教祖様が、私がお知らせを頂いておるように、人間が自分で自分の首をくくるような生き方ではなくてです。日に月にです日勝り月勝りのおかげの頂けて行く様な道を、私どもが選ばせて貰い、そういう道を辿らせて頂く者の上には、私は破滅はないと確信すると私は予言する。二十五年後にどう言う事になるか分からんけれども、そういう道を辿らせて頂く者だけは生き残る。人々として神の栄光を受ける事が出来ると、私は予言する。そこでですそういうあり方を身に付けて行くと言う事はです。
天地ははやる事も終わる事もないけれども、地球はどうか分からん。「地球は」とは仰っておられない。そこでです天地日月の心になる事が肝要だと言う事なんです。天地の心を心としてと言う事は、言うならば神様の心を心としてと言う事であろう。ここで頂いておる教えは、みんな神様のお心なのである。神様のお心を皆さんに伝えておるのである。日月の心というのは、実意丁寧この上もなかった、教祖生神金光大神の事であろう。その生神金光大神を分析すると、日月の心の様な心に成って来るのです。
実意丁寧神信心と言う事に成って来るんです。天地の心というのは、そのままが神様のお心である。「天地日月の心になること肝要」そこで天地の心が分からなければいけない。真理とも言う。その神様の心をです、追及して行く。神様の心を心として、それを一番私は具体的に表現しておるのが、今合楽で言われておる「合楽示現活動」だと思う。これは神様の一番願いに願っておられる事なのですから。だから愈々詳しい事は分からないに致しましてもです。
神様の一番の願いである所の、合楽示現活動に参画させて貰うと言う事が、天地の親神様の一番の願いなんです。人間氏子が地球上に生き残ってくれる、一人でも多く生き残ってくれる事を願いとして、人間の本当の幸福を願って下さってある。そこで私共がおかげを受けて、それを人にも伝えて行くという働きをです、愈々起こして行く一番最高の是は活動であると同時に、神様の願いであると思います。「天地日月の心」天地そのものが神様。その神様の心天地の心。
そこでそれをもう少し分析すると、天は与えて与えてやまないものという美しい心。無条件に、与えて与えてやまない親切な心。地の心はどういう難儀な事があっても、どう言う事であってもですそれを黙って受けて受けて受け抜く心。親神様の神心という神様のお心というものは、分析すればそう言う事になってくる。与えて与えてやまないもの。受けて受けて受け抜かせて頂くもの。それを今日は「神の心」と「天地の心」と。
神の心を心とすると言う事を、私は沢山色々神様のお喜び頂けれるあり方というものはありましょうけれども、出来る出来んは別として、分かる分からないは別としてです、今神様が一番願っておられるのは、地球がこのまま愈々めげていくのではなくて、栄えていく地球として、また地球上に住む人間が、愈々幸福になって行くと言う事が、天地の親神様の願いであるならばです。
その神様の願いを願いとさせて頂いて「合楽示現活動」という「神も助かり、氏子も立ち行く」という運動。そういう活動がです、始まっておるのですから、それが運動とまでなって行く様なおかげを頂かなければならない。それが神の心を心とする事だと。その内容は、与えて与えてやまないもの。又は受けて受けて受け抜いて行く心。日月の心。日月ほど正確無比なものはあるまい。
それ程しのお心を持っておられたのが、教祖生神金光大神だ。「金光大神の言う事に叛かぬ様に」と仰られるのですから、私どもは金光大神の言う事に叛かぬ生き方こそが、日月の心なのである。いわゆる天地日月の心になる事が肝要なのです。そして信心はせんでもおかげはやってあるのですけれども、信心をせん者にですおかげをおかげと感付かせる、おかげをおかげと悟らせる。神様のおかげを頂かなければと言う事を分からせる。そこに示現活動の目的がある訳なのです。
今日は秋期の総会。大祭を一月後に控えましてから、毎月恒例の総会が秋は長いですから、今日は日田の向こうの何とかという公園で、みなさん集われるわけです。今日私はその総会の事についての中心に、今日なるものどう言うところを一つの中心として今日の総会を持たして頂くかと言う事を、お伺いさせて頂いたらね。親指がねとてつもなく大きいんです親指が。
そしてこの四本の指が、小さい所を頂きました。是は今日の御理解からいうならね、親神様の思いと言うのは、とてつもなく大きい訳です。けれども人間氏子というよりも、信心のある者と言うたほうがいいかもしれません。信心のある者というのは、もう細まぁいのです。神様の親指はこんなに大きい訳。けれども四本の指は小さいから、物を持とうにも持てないという感じ。
親神様のお心はやむにやまれん、切実なものを地球上に人類の上に思い送っておって下さるんだけれども、それを受けて立たせて頂く宗教人。信心のある者。お道で言うならば、金光教の信者の思いというのは、神様の親に対する指の小さい事、か細い事是では物は持てまいと言う様な感じで頂いた。またそれをもう少し手前の所で言うならば、私がそれこそ口を開けば「示現活動」と言うておる、親先生の事がこの親じゃろうと思うたです。けれども、ご信者さんのみなさんの場合は。
まあだそれこそ、か細まぁい四本の指の所ではなかろうかと思わせて頂いた。だから本気で、親先生があんなに言うておられるのだから、本気で一つ示現活動に参画させてもらおうという、切なる願いを立てさせてもろうてです。この親指に釣り合うだけの親指に、子供に、信者にならせて頂かなければです。世界の難儀にあたらせて頂くと言う様な事にはなってこない。
結局私どもの示現活動に対する所の関心というものをです。もっともっと深めるという所に、今日の総会の意義というか、そういう示現活動の思いを持ってです一月後に仕えられるところの、秋の大祭に一人でも多くの信心を分からせてもらおう。信心を分かった者の集いになってくる願いを持たなければならないと言う事になります。来月の十六日は普通は参らんという人でも、十六日にとにかくご大祭ですから、お参りなさいと。もうとにかく親先生のお話を頂き頂き。
病気が治ると言う様な奇跡すら起こってるのですから。とにかく一遍見げ来ると思うてお参りしなさいと言う様な事も、一月前からちゃんと宣伝しとかなければいけないと思うですね。これはもう親戚自分の知っとる者に、皆に言うとかにゃいかん。手紙を出すなら、必ず手紙の端には、十六日の大祭の事を書いとかなきゃいけん。その事が示現活動なのですから。私どもが今どこへ行くでもです、示現活動と言う事を先頭に立てたら、「どこどこの温泉に行きます」と言や。
はあ、そら行ってらっしゃい」と言わんばかりにお寄せ頂くです。昨日佐田さんが話しておられましたが、佐田のお婆ちゃん昨日でしたかどっかウナギ屋に、ウナギを食べに行かれたかなんかでしょうか。そして話を聞いた所がそのウナギ屋さんのみんな病気しとりなさるち言う事です。それで今日はまた改めてそこへ示現活動に行かんならんと言うて、昨日言うておられたという話を。
若奥さんから聞かして頂いたんですけども。とにかく食堂に行っても、ウナギ食べに行ってもです、そこに顔色の悪い人どんがおるなら、「あなたどうかありなさるとじゃないですか」位な事は聞く位なね、意欲がなからにゃいけないと言う事であるならば、ひとつ合楽へお参りなさい、おかげ頂きますよと話さなきゃいけん。であるならばおかげの泉を、是をひとつ読んでご覧なさい。おかげを頂きますよと。
昨日は光橋先生が、お届けしとりますが、妹さんの所に三部ずつ、毎月おかげの泉を送るち言う。昨日妹がのりこさんていうのが、福岡におられます。もうちょっと姉さん、おかげの泉でおかげを頂く人は、ばさらかち言いよる。もう目が見えない寸前の人が、段々段々目が見えてきよるち言う。あげなおかげを頂いてから、お礼に出らじゃこてち言うちから言うたら、「もう今度は大祭には、どうでんこうでん、みんな連れちから、参ろうと思いよります」ち言うたというお届けがあっとります。
まぁだ金光様のこの字も、ここで言うたこともない、参った事もない人がです。本気であれに少なくとも十回は読んで下さいよと言うから、やっぱ本気で読んでるわけです。所が見えない、めくらになる寸前という人が、段々目が見えて来る様になって来たと、おかげの泉が読める様に成って来たと言う様なお届けが、昨日光橋先生からあっとります。だから如何に示現活動と言う事がです。
神の心を心としてしかも神様の一番の願いとしておられるのは、それなんだからその事に本気であたらせて頂かなきゃならんのだけれども。私が言うこの親指は、こんなに大きいのだけれども。この四本の指が小さいか細い。これでは本当の世界の難儀をと言う様なことになってこない。天地の親神様の思いは、切にやむにやまれん。奇跡でも見せてからでも、神を信ずる氏子。神を信じての幸福の生活ができれる氏子を願っておられる。どんなに神を疑うても、無信論の人でもです。
そこに奇跡をみる時にです。成程神様が無いとは言われないと言う事に成って来るです。昨日一昨日でしたかね。先一昨日でしたか。大学生のそれこそ神「そげな神様なんて」というものであるけれどもです。両親が病気だというので、渕上君のお導きで参って来ておる。いくら言うても、そんなに神様がいっぺんに頭に入るはずがない。それでも一生懸命あそこで、渕上君が御理解を聞かせよった。丁度十人ばっかりまだお取次があっとった所に、赤ん坊を抱いて夫婦がやって来て、ウロウロしよる。
もう子供がひしる様に泣いておる。どうしてあげん泣きよるじゃろうかと、私はここから思いよった。お取次ぎが終わってここへやって来た所が、なんと足ここヤカンの滾りよるとばかけたげなもん。引っくり返してからここへかかっとる。で足はもうベラリなっとった。そして水ぶくれがこう所々してね、それこそちょいとほんにどげん苦しかろうか、熱かったろうかと思う位でした。
それで夫婦でここで、子供ばここへ連れてきてからね、「こうして火傷しました」そしたら「先生が今から、痛くないごとお願いするよ」と、もう言うた途端でしたよ、泣き止んだのは。そしてからキョローキョロしてから、それこそ痛うも痒うもなかごたる顔しとりましたよ。それを私は三人の大学生が、ここへやって来ましたから「今のことを見たろうが、聞いたろうが」って私が。
ほんならあれだけの火傷をしておいてです、それをほんとにひしる様に泣きよったのが、ここでお取次ぎを頂いた、その時点からです、泣き止んだと言う事は、もう痛さがなくなったと言う事なんです。言うならば、赤ん坊のまだ誕生来ないくらいのですから、そういう火傷したきん、ヒラヒラすると言った様な観念がないから、おかげが直接頂けるわけなんですねやっぱり。
それで大学生の三人の両親が、お父さんは胃癌お母さんも、大変具合が悪くて入院せんならんという程しの事じゃから「もうあんたの所のお父さんやら、お母さんの上にも、これと同じ働きが始まってるよ」って言うたら始めて何かね、本気で神様を信じましたような顔をしてましたよ。何故神様がそう言う様にですね、信じさせようとなさっておられるか。神を信ずる生活、神を信ずる生活によって、人間が幸福になってくれれる事を、願いとしておられるからなんです。
それも神様の目から御覧になると、瞬く間に地球破滅とか、人類存亡の時である事を知らせ、分からせそして一人でも多くものを、それこそ生き残る人々として、幸せな生活が送らせたいという、神の願いがそう言う事になってくるんです。昨日一昨日の十三日ですね。長崎の倉本さんとこなんか、もう死んでおられたんですからね、心臓が止まって体全体が冷とうなっておられたんです。だからもうしまえたというその時点に、ここでお取次ぎしてあるんです。時間を言うと。
そして御神米を頂いてそのまま長崎に、駆けつけられた時には、実はこうだったけれども、今ちょっと息を吹き返しとると言う所に行かれた。そして御神米を頂かせて、それで段々気分が良くなって、もう姉さんほんとにもう死ぬか生きるかという時には、「もう神様も仏様もない」って言うごと苦しかった。そらそうでしょう息が切れる位ですから。御神米を頂いて、しばらくしたらね「お刺身が食べたい」ち言い出しなさった。そしてお刺身を二切れ食べなさった。
それから「ご飯を少し食べてみろうか」と言うて、お粥ば軽く茶碗一杯頂いた。もう湯水も通らない人がですよ。その長崎の方というのが、ここへ二・三回ぐらいお参りしたことがあるでしょうか。お姉さんのお導きで。そう言う様な事実がね。今言う神様のそれこそやむにやまれん思いが、そういう働きになって現れておる事を、私共が推慮してそういう神様の思いにならせて頂いて、神様が切ない思いをなさっておられるだろうと。その思いを、私共の思いとしてです。
昨日から頂きますように、人の難儀を見て、自分の難儀のように人の喜びを見て、自分の喜びとさせて頂くような神心を、愈々作っていくと言う事がです。「天地日月の心になる事肝要」と仰る事なのですから。今日の総会でもです。中心は示現活動にあると言う事です。言うならば親指は大きいけれども、この四本の小指は、か細うて物一つ持てるという感じじゃない。この親指に釣り合うたひとつ小指にお互いがならせて頂く事を、参画するというのです。示現運動に参画する。するじゃないさせて下さい、あやからして下さいという願いを、本気で立てなければいけないと言う事ですよね。
どうぞ。